「Naomi’sWords」カテゴリーアーカイブ

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一人ひとりの子どもが何を,どう学ぶのかについてほとんど何も知らない

中でも切実度を増しつつあるのが授業中の,一人ひとりの学び手の,学習過程の悉皆データの収集,編集,分析である.これがまだないということは,私たちは実は一人ひとりの子どもが何を,どう学ぶのかについてほとんど何も知らないことを意味する可能性がある.それで「次の学びを展開する」のは,相当無理がある.そのことの意味を,今もう一度噛み締めながら,今日ここに集まって下さった皆さんと一緒に,次にできることを探って行きたい.
三宅なほみ (2013).「持続的に発展する実践研究」, 日本教育工学会第29回大会講演論文集. (招待講演)

私は,戸田正直氏の言うpossible rolesを信じて「心理学をやろう」と志した一人である。

私は,戸田正直氏の言うpossible rolesを信じて「心理学をやろう」と志した一人である。
心理学に迷いを感じた時に読んだ“Possible roles of psychology”は,目の覚めるように晴れやかでテンポの良い,それこそ麻薬のような論文だった。
世界の人の知の総体によって,一人一人に最高品質の自己実現が保証される社会を実現しようとしたら,心の科学をその究極まで発展させるしかないのだと予言する心理学者がいるのだ,と信じ込んだ。
この信じ込みが尾を引いて,私は今,人の賢さを最大限引き出すにはどんな認知科学が必要かを問う学習科学をやっているのだろうと思う。
戸田正直 (1992). 『認知科学選書10 感情』, 297, 東京大学出版会. (寄稿).

全員がそれぞれ仮 説を持っていて,対話することによって全員の考えが良くなっていくのだ

デモクラシーというものは,「みんな仲良くしましょうね」とか「いじめてはいけない」という話ではなくて,自分の考えを持っていて,けれどもそれを「私がトップで他の人が考えていることは全部間違いである」というようには思わない,全員がそれぞれ仮説を持っていて,対話することによって全員の考えが良くなっていくのだ,私はあなたと違うからこそ,私とあなたの会話が私たちの考えを良くしていくと分かることなのだと思います。
国立教育政策研究所(2015) 教員養成報告書, 162.

集団の認知プロセスを,根本的に個人でしか有り得ない研究者が本当に研究できるのだろうか?

集団の認知プロセスを,根本的に個人でしか有り得ない研究者が本当に研究できるのだろうか?集団と個人をともに扱える分析の枠組みを作るためにはとんでもない考え方の飛躍が必要なのではないか?近頃ちっとも分析の進まないデータを前にして,そんなSFっぽい疑問に取り付かれている.
三宅なほみ (1994).「「数人」の研究対象 対「ひとりきり」の研究者」. 『認知科学』, 1(2), 2.

こういう強烈な個性は,協調作業の結果なのか,必要条件なのか.

T氏に「あなたが参加するのとしないのとで研究会の質が違いますか?」とうかがったところ,「そりゃあ,あなた,みんな内心ではそう思っているものですよ」との返事が返ってきた.
こういう強烈な個性は,協調作業の結果なのか,必要条件なのか.
三宅なほみ (1994).「「数人」の研究対象 対「ひとりきり」の研究者」. 『認知科学』, 1(2), 2.