三宅なほみの研究物語 三宅なほみ先生が紡いだ研究のルーツをや関心事を、先生からお聞きし、連載形式で沢山の方にお伝えしていきます。
記事一覧

三宅なほみの研究物語No.10 研究そのものが研究者の文化と起こすインタラクション(Cole的な文化相対論)

――次第に三宅先生の関心は、ことばをつかって考えることに絞られていったんですね。

三宅
私がやっていることは、一方では言語の相対性みたいな話なんですね。
当時、「あぁ、あなたのやっていることはサピア=ウォーフね」と言われることがあった。

――すみません、サピア=ウォーフについて、少し説明してくださいますか。

三宅
サピア=ウォーフというのは、文化による言語相対性の仮説ですね。虹の色は何色か、牛の名前はいくつあるかといったことは、言語によって違う。例えば日本で「ご飯」と言えば調理された食べられる状態のもの、「米(コメ)」と言えばそのままでは食べられないものを示しますが、英語では調理の有無で区別せずどちらも"rice"と言います。文化によって名前の付け方が違う。人の思考は、そういう言語の違いに影響を受けるという考え方なんです。「人の考え方は文化や言語の影響を受けているよね」という程度に考える「弱化説」と、「ある言語を使っている人はその文化の中の考え方しかできない」という「強化説」というのがあって、おもしろいテーマですよね。マイケル・コール の「文化心理学 」に詳しいことが書いてあります。

この話は下手をすると、日本語に「浅黄色」「萌黄色」といった色を表現する語彙が大量に存在するので日本文化は美的感覚が優れているとか、っていう話しになってしまう。

――ラベルがたくさんあれば、それに頼って思考してしまうとも言えるのでしょうね。

インタビュ-のイメージ

三宅
ええ、ことばに頼らず、色チップを山に分けていくという作業をしてもらったら、成績は文化による違いが見られないということになるのですけれど。
でも、私達はことばをつかって色を伝えるし、どうしても色をつかって考える。
言語がどこまで思考を制約しているのか、あるいは思考が言語を制約しているのか、言語を変えたら思考が変えられるのか、考え方を変えたらことばが変わるのかといった話は、実験するのがすごく難しい話なんですよね。

――複数の言語を操る人の場合、自分が今どの言語で考えているのか意識するのは難しいことも多いでしょうね。

三宅
似たようなことは、東-Hess 日米幼児教育比較研究の中でも、感じていましたね。
当時、私は先生方から受け取った大量のデータをパンチカードに入力して計算機で処理するという仕事を引き受けていました。当時の処理速度では早朝に入力したデータの処理結果を得られるのは翌日というのも珍しくない。それで私は先生方が望んだ相関値が出たかどうか、よく気にして見ていたんです。そうこうする内に、あることに気がつきました。それは、アメリカ側が提案した指標はアメリカで取ったデータで分析するときれいに結果が出るけれど日本のデータでは説明が付かなかったり、日本側が提案した指標は日本で取ったデータで分析するときれいに結果が出るけれどアメリカのデータでは説明できなかったりする、ということでした。

アメリカでの報告会議では、当時大学院生だった私にも発表機会があったので、今の話をしてみたんですね。私が見る限り、リサーチャーの文化とリサーチメソッドのインタラクションがある、つまり文化依存性があると話したんです。するとHessが「そうか、気がつかなかった」と言ったので、私は大変びっくりしました。気づいていると思っていたので、これまでの仕事を労わったリップサービスかと思ったくらいでしたが、本当に指摘されるまで気づかなかったということでした。このとき「文化って怖い」と思いましたね。

後に留学先のアメリカでマイケル・コールに日本でどんな研究をしていたか聞かれたとき、彼が波多野誼余夫先生のことを知っていたこともあってこの話をしてみました。すると彼は「そういうことは大いにあるだろうね。いい経験をしてきたね、若いときに」と言った。彼にとって、この類の話は、すぐピンと来るものだったんですね。

このページの先頭に戻る