学習科学から 7月号分 人は目立つものとわかりやすいお話が好き

人は目立つものとわかりやすいお話が好き

先月は、人が誰でも大体みんな自分がこうだと思ったことを変えるのは嫌い、という話しをした。その続きの話をしたいのだが、人が「思い込んだら百年目」であるとして、その最初の思いつきは、どこから来るのだろう?人によって、経験によって、千差万別なのだろうか、それともそこにもある種の「人の認知過程の特徴」と呼べるような一定の方式があるのだろうか?

KahnemanとTverskyという研究者は、いろいろな条件、特にあいまいな情報を扱う状況での判断課題を人にやらせて調べた結果、一般に「人は(論理や数学や正義などではなくて)目立つものが好き」だという。だとすると、「目立つもの」が、人の最初の思いつきのタネであるかもしれない。まぁ、目立つものは理由があって目立つのだろうし、目立つものが人の注目を集めたとしてもそれほど害はなかろうから、いいではないか、といいたいところなのだが、これが、案外、人間のことなので、一筋縄では行かない。Kahnemanたちはなかなか実験のうまい人たちで、例えば、英語を母国語とする人たちに対して、「kで始まる単語と、kが三番目に来る単語とではどちらが多いと思いますか」などと聞く。こう聞かれると、たいていの人が「kで始まる単語の方が多い」と答える(あなたもそう答えたいでしょう?)。ところが普通につかうような辞書でしらべても、kが三番目に来る単語はkで始まる単語の3倍ほどあるのだそうである。単語を頭の中に思い浮かべようとした時、確かに「kで始まる単語」は、killだのkingだのからknowなんていうのまで「目立つ」が、「kが三番目に来る単語」はあるのかないのか、まったく目立たない(気になる方のために例をあげるなら、makeやtakeやcakeがみんなそうである・・・そういわれてもこの3番目のkは地味である)。つまり、彼らの言う「目立つ」とは、実在しているかどうかに関わらず、その存在がわかりやすく、かつその人が自分の知っていることの中を探しに行ったときに見つかりやすい、ということなのだ。

こうなってくると、「目立つものが好き」なことは、事実に基づくとは限らない硬い信念を支えることにもなり、少々困ったことにもなってくる。先月号でも引いたギロビッチという研究者によると、アメリカでバスケットボールが好きな人は、ある一人の選手のシュートが一本決まると、同じ選手の次のシュートも入る確率が高い、と考えるのだそうである。この「現象」にはホットハンドという名前までついている。選手に聞いても、みんなそういう現象がある、と断言する。そこで、ギロビッチたちが、年間の全選手のシュートの記録を残していたあるチームからその記録をもらっていろいろ調べてみたところ、どの選手についても、一本入ったからといって次の一本が入りやすくなるという傾向は認められなかった。

このホットハンドと呼ばれる現象は、確率的には選手やファンが考えるよりずっとまれにしか起きないにしても、「起きる」ことはある。そして起きたときには「目立つ」。この目立ち方が、この「現象」の「起きやすさ」を支える。ギロビッチたちがこの結果をこのチームのメンバーやファンに伝えたところ、伝えられただけで「事実に目覚めた」人はほとんどいなかった。逆に、ゲーム中に起きるリアルな場面での微妙な現象を、年間通してのシュートの成績表などという無味乾燥なものから理解できるわけはない、という理由で無視された。ではもう少しはっきりしたデータを出そうというので、ギロビッチたちは、ゲーム中に他の選手の妨害などの他要因が関与しにくいフリースローの練習場面で「実験的」な観察をした。選手がボールを投げる直前に毎回「次は入りますか?」という質問をし、答えとその次のボールがゴールに入ったかどうかを記録して調べたところ、一本入るとその次に投げるボールが入ると解答する率は上がるのだが、実際に入る確率は、前に投げたボールがゴールを外していた時とほとんどかわらなかった。

この結果も、ホットハンドを信じる人たちの考え方を変えることはなかった。それはそうさね、そんな、投げる前にいちいち「次、入りますか?」なんて聞かれる不自然なテストと、試合現場で同じことが起きているわけはないやね、心理学のテストが崇高なスポーツの真理を明かすことなんて、所詮むりだやね、ということになる。そんなヤボな話より、ホットハンドで勝った、って言う方が「素敵な話」じゃないか。人は、目立つものが好きなだけではなくて、目立つものが、素敵な話を作ってくれるなら、さらにそれを信じたがるものらしいのだ。数学の話だって、「目立つ」現象を作って、それに「素敵な話」を結びつけることができれば、生徒は自分からその話を信じてくれる可能性がある・・・その「わかりやすい素敵な話」が間違っていたりしたら、信じてもらえるだけに問題だが。

科学の教科書の中で実際には間違った話が「わかりやすい素敵な話」だったために広く流布してしまった、という例はかなりあるらしい。心理学にも例がある。アルバート君への恐怖条件づけの実験といわれるもので、心理学を習ったことがおありなら、聞いたことがあるかもしれない。この実験では、生後9ヵ月のアルバート君にたいして、白ネズミへの恐怖を植え付ける実験が行われた。アルバート君が白ネズミに近づくたびに金属棒を金槌で叩いて大きな音をたてて怖がらせる、ということを繰り返しやっているうちにアルバート君は、音がしなくてもネズミを怖がるようになった。教科書には、この話に続けて、「アルバート君はまた、ウサギや白い手袋、綿の玉、白いあごひげなど、白ネズミによく似た対象に対しても、かなりの恐怖反応を示し、そうした恐怖は長い間消えなかった」と書いてある。この話は教科書の中でも、「人間の情動的な行動の獲得と変容」などという見出しのついたあたりによく出てくるのだが、実は、大事な部分が作り話だという。実験の前半は大体本当のことらしい。実験開始7回目くらいでアルバート君がネズミを怖がるようなり、その5日後にテストをしても、恐怖は強く残っていた、という。アルバート君は、ウサギやイヌやアザラシの毛皮のコートにも強い恐怖を示したほか、サンタクロースのお面やワトソン博士の髪にもかなりの「否定的反応」を示した。ここまでは、「教科書どおり」なのである。

しかし、さらに5日後にテストしたところ、アルバート君はネズミにほとんど反応を示さなくなっていた。そこで実験者は、また金属棒をたたいて大きな音を出して怖がらせるという手続きを再開した。今度はウサギやイヌに対しても、大きな音を対にして提示した。そして31日後にテストをしてみると、アルバート君は、ネズミ、ウサギ、イヌ、アザラシのコート、サンタクロースのお面のそれぞれに触ると恐怖を示すことが確認された。しかし、どの程度の恐怖だったかというと、「アルバートは四つんばいで起き上がり、ハイハイして逃げていった。このとき、アルバートは泣きもせず、バブバブと楽しそうな声をあげた」とある。

つまり、実験報告をきちんと読めば、アルバート君のネズミに対する恐怖はそれほど強くはなく、他のものも怖かったのは、そういう条件付けをやっていたからだ、ということがわかる。ところがそれでは話が「面白く」ない。話を「面白く」するために、いくつかの有名な教科書では、この後アルバート君にこれまでとは反対の実験をしたところ、ネズミが怖くなくなったとされ、その詳しい手続きまでもが説明されている。ところが実際にはアルバート君は、上記の報告が書かれた直後に退院してしまっていた。

なぜこう話が歪曲されるのだろう?ギロビッチは、教科書を書く人が元の話を「わかりやすく」て「面白い(良い)話」に仕立てあげようとするからだ、という。良い話をしたいという欲求や要求が他人に伝える情報の正確さを歪める。世の中が複雑になって、よくわからないことが増えればそれだけ、人はわかりやすい話にひきつけられる。人はだれでもこういう傾向を持っている、ということを私たちはやっぱり知っておいたほうがいいだろう。私たち教員が、「うん、これはわかりやすい、よくできた説明だ」と思うときにはよほど気をつけたほうがいい。話がよくできていればいるほど、もし万一その話がうそだった時、聞いた生徒はみんなそれ<だけ>覚えている、などということにもなりかねない。