招待講演(2000年6月29日) (1) 中京大学情報科学部認知科学科の三宅なほみです。 賢さを作る。協調による共創、というタイトルで話をさせていただきます。 ご紹介ありがとうございました。 いろいろ考えてみまして、裏の事情を聞くと、どうして私がここで招待講演をすることになったのはいろいろ事情があってのようなのですが、あまりそのようなことは考えずにこの機会を使って、今やっていることを少しまとめて、何かこういうことがわかってきたというひとまとめの話よりは、問題定義が多くなるような気がするのですが、今こういったことに困っています。こっちへ行きたいと思っています。というような話をさせていただきたいと思っています。 一言だけなんですけど、招待講演者が今回2人で、2人の平均年齢が50歳を越すんですね。だから、認知学会も変わってきたなぁと言う感じが、去年は国際だったんですけども、あんまり平均年齢が高くならないようにとかいろいろ考えたんですけども。素直にやっていくとこのようになってしまうのかな。若い人たちにがんばってもらえるような場に、認知科学会していかなければいけないなというような話で。 私も歳をとったな、と話を作りながら思っているのですが。 (2) 今やっていること一言でまとめてみると、認知科学を教えると言うこと自体が一つの研究テーマです。 (3) 話の流れとしては、認知科学はそもそも教えるに足るか。という話を前振りでして、教えることそのものが認知科学的な研究になり得るかということを確認して、工夫次第で教えられそうな手応えがでてきている。ほとんど中京の認知の特に大学院生中心としての共同研究の成果ですので、いろいろな名前を出しながら、しかも私は会期の一番最初の日のスロットをもらったので、今回発表する連中がみんなこれで迷惑するというふうになっていますけども、迷惑に出来るだけしない、出来るだけこれがアドバンスドオーガナイザーになるような形で話ができればと思っています。 ここ3〜4年、こんなことを努力していて、一応すべて上の問いにyesという答えを出したいな、という話なのですが、 (4) 認知科学を教える、特に学部に入ってくる18歳を相手に、高校まで認知科学という言葉をを聞いたことがない人達を相手に教えています。認知科学って何って言う問いに、答えはないんだよと言うやり方もあるんですけども、私たちの心構えを一つ示すやり方として、人を賢くする科学なんだ、と今は言うようにしています。 そうしてしまうとほとんど宗教みたいになっちゃうんですけども、ほとんど宗教に下手するとなるよなー、という自覚、付きでやっています。というお断りみたいなもんですが、この自覚が結構キーワードになって、最後まで効いてきます。 (5) まじめにですが、認知科学は教えるに足るのか。 認知科学というのは賢さを作る科学、だとしたらその賢さの仕組みを考察して、実際賢さを作ってみることで、賢さの本質を調べていきたいんだ。私にとってはこれが認知科学の王道です。 相手が機械ならシュミレーション研究という一つのやり方が認知科学の中にあるわけで、だったら相手が人間でも「賢さを作」ろうとする研究が人間理解を深めていくだろうと思っています。 (6) 賢さの科学がなぜ必要か。ということを考えたときに、社会の激変にそなえるために、ヒトがヒトのこと、得にとヒトとヒトとが一緒になって構成する社会の仕組みを知らなくてはならない。 今まで私たちがやってたのと、同じことをやって生き延びていけると思えない。ぐらいの社会構造の変化ということが起きるから、だから人間が1人1人、人間のことを知ってなきゃいけないんだよ。 (7) これは私がやったのではなくて、もう30年ぐらい前にまだ戸田先生が若かった頃に「Roles of psychology for the very distant future」という講演を一つなさって、それが受けて、いくつかの言葉に翻訳されて、という物がありますが、その中にこのときには残念ながら認知科学がないので、Psychologyなんですが、数ページ、10ページに満たないような気がします。短い論文の最後に「Psychology must be the master science in the very distant future. ... to find new dynamic social systems, and to let the precious mankind survive.」言う形で、40そこそこの戸田先生の言葉で語られているものがありまして、やっぱりこういうところからこういう講演をさせていただくと、細かいところに入ってしまうのですが、私が心理学をやれば何とかなるかな。これで、何とか一生食べていく決心をしようかな。と思ったのがこの論文でした。 人間が、人間の社会が変わっていく。人間自体の物の見分け方をもっと賢くして行かなきゃいけない。それが出来るサイエンスがどうしても必要なんだ、戸田先生がお話をしていると、このときにに考えていたPsychologyが彼の言うところのエモーションに関してのアージセオリーですし、これがコグニティブサイエンス(認知科学)であっても戸田先生自体はお困りにはならないでしょうね。そういうことを私たちはやっていきたいんだと思っています。 (8) そういうコグニティブサイエンスを教える中で何を教えたいのか。人を研究する、専門的にインターフェースデザインのために研究する方法もそうですけども、私たち一人一人が人間として生きていくために人のことを知っている必要がある。そのための研究法。広い意味での研究法なんだと思います。 個々の事実というのはをサイコロジーをはじめとして認知科学に貢献する知見があるわけですけど、一つ一つをバラバラに覚えたところで役に立つとは思えない。それらの間の整合的な関係付けをやりたい。認知科学をやっていておもしろいのはこういうことが出来ることだと思うんですね。いろんなところからいろんな話がでてくる。LaveのAMPというのは、素人の人たちがどうやって計算するかという話ですけども、そういう中にカッテージチーズの2/3カップの3/4を食べてくれといわれると、計算ではなくてカップとまな板と指を使うという類の話から、スーパーマーケットで人は計算をするわけではない。いろいろな外的リソースを使って状況に支えられて問題を解決するよという話が片方であるかと思うと、大脳生理学的な研究で、主に被研体は”鳩”を使って研究している渡辺さんが、どういうタイプの学習なら頭の中できれいに局在性がでてくるんだろう。彼らが今持っている方法論で。やっぱり実験室の中でのパフォーマンスのためにその場一時で教えた物は局在性がきれいにでてくる。 逆に言うと、大脳の一部を壊すと簡単に壊れてしまう。そういう話って強引ですけども、両方を重ねて見ていくと状況依存性ってのが、一つの実験で出てきた、おもしろいねこれ、っていう結果だけではなくて、人間の認知システムのベースがある一つのハードウェア的な物とも重ねっているかもしれない。こういうある意味ワイルドなコネクションを作って、人間ってなんだろう。人間どうやったら賢くしていけるだろう。そこを考えていくのが認知科学のおもしろいところだろうと思います。 Reisbergの曖昧図形単一解釈説というのは、頭の中だけにウサギとアヒルの曖昧図形を入れておくと、ウサギだと思った人は頭の中でいくら反転させてくれと言ってもウサギにしか見えないけど、「これはアヒルです」って記述的に渡せば、反転しますし、自分で書かせれば外に出した物は反転しますし、っていうようなイメージ論争のReisbergのそこがメインではなかったのかも知れませんが、そういうタイプの実験結果と、例えば子供が発達していく中で人の絵が描けるようになってくる。その子に、人じゃない人を書いて。よくこんな質問考えつくもんだと思いますけども、ということを聞いて描かせたときに、人を描くプログラムが年齢が上がるに従って部品化して組み替えが可能になってくるからだ。 頭が2つある人を描けるようになるか。そこに人間のある意味ハードウェア込みの成長がかかってくるんだ。部品化って言う話と知識化っていう話がどこかでつながっている。深いところでつながっている。そういうところに私たちの目を向けさえてもらえるようないろいろな知見というものをバラで覚えても仕方がない。そういうもを組み合わせてそこから生まれる人の認知行動の仕組みについてのメタ理論を作っていくのが認知科学なんだ。 だったら相手は大学1年生ですけども、メタ理論を作っていくのが認知科学だよ。という話をしていけばいいんだと思います。 (9) おもしろいメタ理論が今どんどんでてきているところで、アージ理論はその最たる物だと思いますし、進化心理学がそうかもしれません。これも何代目かの会長の適応的熟達化が今アメリカでもすごく流行になっていますけども、これも一種のメタ理論です。 メタ理論のおもしろいところって言うのは、どれも聞いたときにすごく魅力的なんですね。だけど伺っていると、常に構成、改変中で、戸田正直著のアージ理論についての本はほとんどケンブリッジUPの担当の人と1年ごとにケンカしているみたいな感じで、まだできあがらない。けれど、「作り変えられること」自体が人間の賢さの現れだろう。「作り変えられること」「作り変えること」自体が認知科学の中では大事にしていくべきだろうと思います。 (10) そういうメタ理論というのを教えていくことが出来るのか。例えば「学び方を教える」「変えていくことを教える」というようなことが事実の勉強をしてもらいながら、その上で出来るのだろうか。それが私たちの認知科学を作っていく上で、私にとっての今の研究テーマとしてのチャレンジだと思っています。 私自身はそれに立ち向かうのに、持てる武器は今のところは協調活動がすごくできる環境で研究させてもらっていまして、勝手がいろいろ使役をくれていますが、私自身の中に持てる武器の元というのはもう20年前にやった、博士論文の時の理論constructive interactionしかない。そこがよりどころになっていくと思います。 (11) 二人共同問題解決場面で、2人でいると何が起きるかというと、2人参加した人、1人1人が自分の疑問を見つけて自分の解決を作っていく。一人一人が理解を進化させていく。そういう力を共同問題解決場面は持っているんだという話です。 扱った問題がミシンの縫い目の問題で、ミシンの縫い目がどうやって出来るのっていう話が最初にあると、少し話を知っている人が、上糸の輪の中を、端がないとミシンの縫い目って出来ないんですけども、ボビンの中に隠れている糸の端が、上糸の輪の中をくぐり抜けてしまう。そういう形で解決に至るのだよ。まぁ、ここまでで2時間くらいかかりますけど、そうすると、最初にミシンの縫い目ってどうやって出来るのって言っていた本人の方が、それはきれいな説明だけど、もしそれが成り立つとしたら、ボビンはどうやって本体にくっついっているの? というやりとり。少しずつお互いが自分の仮説とそれに対する答えを作りながら発言していくことで、その人自身の解決に相手の答えがヒントになって、ということが起きることは非常にまれで、というか、こういったことでこういうことはほとんど起きなくて、お互いが同じ問題を解こうとしている。相手が言っていることが刺激になって、自分が自分の理解過程を掘っていく。という過程が起きるのですが、これをやったときに後から、引用してもらったところを見ると、協調問題解決過程っていうのを分析したのは比較的早かったんだよね。という話になっていますけど、やっていたときにやっていた本人の心づもりとしては、 (12) 理解進化の理論を作っているつもりだったんですね。 ミシンというのはデバイスですから要素はあります。上糸が来る、下糸が来る。上糸と下糸がある一定の絡み方をする。その説明というのはそういう構成要素の単純なつながりで出来るんだ。 (13) ただ理解が深まるとか、ある一定レベルで止まるというのはどういう話かというと、構成要素をまとめて一つの説明を作ってそれで終わりにすることも出来るけども、構成要素そのものは一つのファンクションを必ず持っていますから、そのファンクションはどうやって起きるのか。いつでも構成要素で説明を作ったら説明が出たとたんに次の質問を生む下地ができあがる。たまたま下に書いてありますけど、どこかに説明を求めていける。 (14) 理解の枠組みというのはこういう要素によって、構成によって説明ができあがる。説明ができあがったときには、そこの中にひとつひとつ説明を養成するような構成要素が入っているんだ。こういう枠組みで考えていくと、理解のプロセスというのはリテラティブだという形で論文では通してもらいました。だんだん循環して、ミシンの話ですと話がだんだん細かくなっていく。細かくなることがわかることはいいことだ。というニュアンスがどうしても出てしまうペーパーではあったのですけど、 (15) この話はきりがないので、結局は無限後退し得るんだ。「下のレベルへ行くのがいつでもよい」わけではないと思います。認知研究、なんてことをやっている場合には、どこかで大脳生理学的なレベルのハードウェアの細かいところへ行かなくては話が分からないのか。そういったことを言いたいための枠組みではなくて、それぞれの目的に応じてどこのレベルで話をまとめるか。それを決めるのが一つの賢さですし、そのレベルで決めたときに同時に、この話というのは別の説明、別のレベルの説明になっているはずだし、今自分がわかっていることと言うのは、いつでもその中に解決されていない構成要素、説明されきっていない構成要素を含んでいますから、自分自身に対してこれは本当に大丈夫なのだろうか、と聞くきっかけというのは自分で作れるはず。説明はいつでも不十分で、あるレベルの「説明」がcompleteに感じられる時であっても、「その構成要素についてなぜを問うこと」が可能であって、しかもその説明が見直しにつながる。 これはかなりメタな話ですけども、このような認識が理解の基礎にあるだろう。 (16) このような説明の作り直しや、構成要素の成立を問うんだ、と言うような話そのものは、どうも話としては分かりやすい話らしいです。ミシンの話をして話してみない?ということで心理系の方、あるいは人工知能系の方だけではなくて、会社の経営を行っている方だとか、物のデザインをやっている方だとか、いろいろなところへ行ってこういった話をさせていただく機会がありましたけれども、人のわかっていることってエンドレスなんですよね。あることがわかってきたと言うことは、その先に何が自分でわからないかが見えてくることなんですよね。と言う話をすると「あぁ、それは私昔からそう思っていました。そんなことまじめにやっている学問があるんですか。」と言う反応がほとんどだったというような気がします。そういう意味ではあの説明の付け方というのは非常に了解(共感)されやすい。ただし、人が個々の問題を解いているときに、わかってきたよね、だからこの先にまだいろいろ問題があるはずだよね、その問題を解く必要があるのかないのか全部いちおう整理をしてみよう、と言う話になるのは非常にまれです。ミシンの場合もそこに行くのにすごく時間がかかっている。データ上ではこのプロセスというのはゆっくりにしか起きない。 (17) この、自分自身に吟味をかける働きが、賢さの一部であるとして、言っていることが了解されやすいなら、一般原則として大学生にでも伝達可能だろうから、これを伝えていくことは出来るだろう。ただ、これを自覚して実行することはすごく難しそう。ここはサポートする必要があるかもしれない。このサポートのためのヒントが、私自身が分析をしていた、今は仲間がどんどん分析を続けてくれている二人共同問題解決場面の中にあるのではないか。という話です。 (18) 二人問題解決場面がうまく働く。ソロとペアとに同じ問題を解いてもらってペアの方がうまくいくことは、実はそうないんですけども、同じ程度には行きます。2人が全く違う物を寄せ合って一つにするという話ならうまくいきますけども、一緒に考えたから考えが深まった、というようなきれいなケースはそんなにたくさんはないですが、それが出てくる条件というのは2つくらいあって、一つは、2人の間に変更可能な外化物がある。自分の考えていることはこれでね、としゃべっていることも外化物だというように今私はとっています。でもモデルを書いていたり何か物を作っていたりという外化物があって、実はその外化物自体が正誤を持っていない方がいい。というちょっと細かい話があるんですが、それは深入りしません。 2人の間で外化物に対する見立て/評価が異なる、という場合に、2人の問題解決というのを2人が経験して、理解という面から考えたとき、ベネフィットがある。ということがあるのですが、 (19) ではこの条件をどうやって満たしていくかという場合、2人の間で見立てが違うことはほとんど確実です。何か出てくるたびに見立てが違いますから、それぞれが外化できることがまず大事だろう。 (20) そういうメタ理論の学び方の示唆としては、うまく外化が出来ることと、その外化物に対して吟味を加えるモチベーションが働くこと。2人いることが吟味のモチベーションを与えているだろうという風に考えると、何か話が行ったり来たりしているのですが、 (21) 「メタ理論の学び方」の研究の焦点になってくるのは、外界というのはなんなのか、どうやって支援できるのか。という問題と、協調とはどういうことか、どうやって支援できるのかという問題に私の中ではなってきました。 (22) ここまでが前振りで、外化に関するresearch questionsなんですが、いろいろあります。取り上げられた物は私たちの興味とエネルギーのかけられた具合によっているのですけども、発話は、おそらくもっとも楽な外化ですが、これがいったいどこまで外的リソースになり得るか。発話するだけで話が進むことはあり得るのか。 ほとんど外化しない物を無理やり外化させられるか/メリットはあるか。 そもそも外化、外的リソースとは何なのか。これらのような研究を通しながら、こういうことを教えてみよう。認知科学やなんなりで教えてみようといったなかで外化を取り上げることによって人間が持っている外的リソースへの働きかけ方の本質を見てみたい。ということなんですが、軽く共同研究者の名前を出していきます。 (23) 発話はどこまで外的リソースか。 ハノイの塔を繰り返し解くときにその解き方を説明してもらうと、再起構造を持っているというような気付きが誘発されるんだ。というようなのを落合弘之さんがやっています。 すごくぶっ飛んでこういうところから何を考えるのかというと、発話くらいはせめて授業中でもしてもらった方がいい。今一方的に発話しているのは私なんですけども、外化してゲインがあると何か全部こっちに帰ってくるわけで、おわかりになりましたでしょうか。そこで3人くらいで話し合ってもらうということをやった方が、もし私が本気でそこまでわかっていただく必要があると思っていたらそういうことをすべきだ。というような話になります。 (24) 普段はしないことを外化させるというのは、読解過程というほとんど頭の中で起きる過程を文に切って二次元配置で読みの過程を近似するというのを野田耕平さんがやっていますけども、 (25) これ5倍速くらいにしていますので、本人がこの速さで動かしているわけではないのですけども、文章をこうやって並べていっているときにどの文章を一緒にして構造化しているのかということが見える。これを元に本人が自分はこうやって読んでいるのか、というようなのもおもしろいですし、側で読みの過程を研究しているのもおもしろいんですけども、実際にはこういう物があることで、学生同士が「どうしてこのカードそこに置くの?」というような簡単な外化が起きて、それがきっかけになって考えを深める活動がおきていく、というようなことをやってみたりしています。 (26) CArDの延長のような研究としては、読みで何が難しいかというと、CArDの場合は文単位に切っていますけども、実際には文の固まりでどれが一つの単位になっているのかという単位の切り出しと、それを並べていくときの構造化が難しい。 単位の切り出しと構造化を読者のためにやってくれている文化がないのか、と考えたときに漫画が多分そうなんですね。 話したいことがあったときにどの絵にするかというのをコマを決めて、コマの配置をきれいに組み上げると読んでわかる漫画が出来る。それと、漫画による理解支援というのも可能らしいというものを石川誠さんが今やっています。 (27) 普段はあまり意識しない構造化というのを、道具を作ってやらせると、教示なしで実際出来るし、効果もありますので、学んでいることをほんとうに「ばらして組み上げてみる」という活動を学生に授業でやってもらうことも可能です。 (28) そういう話に加えて、外的リソースとはそもそもどういうものなのか、ということを考えているのは、折り紙を使って能動的な計算をプロセスを細かく見ていくと、かなり年季が入ってきました。最初に考案した本人から次の人へ引き継がれて、いま白水始さんがやっていますけども、外が使えるというようなものよりはもう少し積極的に人は外を使いに行く、というような分析が見えてきています。 (29) 折り紙の2/3の3/4に色を塗る、あるいは斜線を引くという課題ですが、最初に計算して答えは1/2になります。1/2のところに線を引いて色を塗るという人は1割くらいしかいない。折るというのはそうたくさんいるわけではなくて、4割くらい。後の人たちは指で示したり印を付けたりしますけども、いずれにせよ折ると印を付ける。足して9割。外を使って人間というのは計算をしている。 (30) 折り紙だから折れるから、という話になったときに、折り紙だからではないようなんですよね。厚紙なりアクリル版を使ってやっても、あの割合はほとんど変わりません。いろんなことをやっていますけども、ではなぜいろいろなことをやっているのかというと、別のメリットがありそう。 (31) これはどんな折り方をしているか可能性、非常にラフな分析の一部分だけ持ってきていますけども、右側のような折り込んでいく、プロセスがかからないタイプのパスを通るのではなくて、むしろ手数はかかるんだけど、途中でまるで囲んであるところですけども、1を見に行って2/3が出来たのね。自分がやっている仕事の中途結果を外で確認しに行くというパスを人は非常に好んでとります。 (32) という意味では、外を使う計算のメリットというのは、やったことの跡が残っている。やったことのプロセスの中途結果ですけど、外化されている。それを使って自分のやっていることがちゃんとうまくいくかどうかと言うのを人は確かめにいく。 たぶん聞いても「ここで1に拡げてみたのは確かめにいったんです」という現実はとれないと思います。でもこの行動を見ていると、そういうことをやっているよね、という偏りがかなり大きく見られる。 「外があれば使える」あったから、折れたから折ったんだ、と言うよりは、途中を見に行く、外が有利なことを前提にして「外を使いに行っている」というデータが繰り返し出ています。 もし人が外を使えることを知っていたら、これを2人でやったらいったい何が起きるんだろう。ある意味白水さん自身がこっちの方向で進めていってくれて、今回彼が話を持ってきていますので、詳しい話は私はここではしませんが、ある意味自然な行き方なんですけど、おもしろいなと私自身が思うのは、私自身は折り紙を2人でやらせたら一方は2人で3時間も4時間ももすったもんだしてもらうプロセスを、プロトコルとってゆっくり分析するというのが私の得意技なんで、2秒や3秒で決着が付いてしまうようなビデオを何回も分析してという分析はあんまり思っていなかった。言われてみればこれ当たり前みたいなんですけども、やっぱりこういったところに協調作業の効果というのは出てくるんだと思います。 (33) 折り紙計算を二人でやってもらったら何が起きるかこのときには、「3/4の2/3はどうなりますか」と聞いておいて、立て続けに「では2/3の3/4はどうなりますか」と別の折り紙で聞く。 (34) ということをやってみると、1人でやってみると1回目から2回目にやり方を変える個人というのは少ないんですけども、 (35) ペアにすると2回目に「計算すればいいじゃん」というので方略を変える人がたくさん出ます。ここで何が起きているのかという話は、白水さんの話を聞いてください。 (36) ただ、複数で外を使うメリットというのは、ちゃんとうまくいっているかということを確かめられるだけではなくて、やっぱり<私>のやっていることが<他人>から見えるところのメリットというのを、これだけ人が外を使うと私たちというのは、どこかで知っているかもしれないです。 (37) それは別のやり方に気づくということですし、 (38) 複数で外を使うメリットがわかっている。ということで、ちゃんとうまくいっているかどうか確かめて、別のやり方に気づいていけるんだ。一人一人がそういうことが出来るんだ。いうところに私たちが社会的な存在として、みんなで一緒に物を考えていく社会をこしらえて、そこの中で一人一人が考えを深めていって、また考えを相手にぶつけていって、ぶつける中で新しい社会を作っていく。 協調から共創へのメカニズムが潜んでいるのかもしれません。 (39) 協調に関するresearch questionsとしては、他者を導入するといま言ったような、互いに少しずつ違った視点を持ち込んで、二人がじわじわっと進むといったことがどのくらいあるのか。2人で進んだようにバルクで実験やって見えるのは、誰か答えを知っていた人が入ってきて「これじゃない」といって出ていく一人主導型のプロセスなのか、2人がコンストラクティブにインタラクションをしているのかといったところは調べてみたいところですし、そういうことでメリットがあるならば、たくさんの他者を利用する方法はないのだろうか。というようなことがresearch questionsになると思います。 (40) 折り紙問題を2人で解くプロセスというのを枠組みを作って実際にはどういったプロセスをとるはずか、という一種のタスクアナイシスをして、細かく分析した結果をみてみると、一人が結論に突然気づいてそれが2人のプロセスを引っ張るというよりは2人ずつが「こうなんじゃない?」第1段階を出す。それに対してもう1人が「だったらこうなんじゃない?」ともう1つ出てくるとそこまでいけるんだったらここへいけるよね。というようにかみ合っているようです。このあたりは白水さんは折り紙を使ってやっていますので、タスクを変えてやっていきたいです。 (41) 他者の導入というのはいろいろなところでやっていると聞くわけで、実際さっきのハノイの塔で「話すといい」という話をしましたが、実験者に対して話をしているんですね。それからどういう話をどういう文脈でしているときにゲインがありそうなのか、というのを少し細かく見ていくと、実験者に対してQ&Aをやっている。いまやっていたことはね、と少し説明をする。それのほかにただいまこういうことをやっています、という実況放送が出来ますけども、実況放送の文脈ではなくて、説明、報告の文脈でゲインがとれているようですし、2人で話し合いながらやるのがいいんだったら、先生を2人して1人に教えさせる。いつもとは逆ですけど、教師の方が何を言葉を尽くして、どのように考えて教えているかがもう少し見えるんじゃない?ということを分析している鈴木晋吾さんというのもいまして、うまくいっているときは他視点導入型になっているような結果が出てきています。 (42) 質の高いQ-Aは大事だよね。これは授業の中に入れたいよね。という話ですけども、初心者には難しいという問題がありますし、Q-Aであれば基本的には一対一です。一対一で起こっているメリットを受けられるのは一人だけではもったいないよね。という発想もありますので、 (43) 素朴な発想支援というので、とにかく初心者が質問できないといっているけど実態を調べてみるところから地道にやりましょう。秋元重徳さんがいま修論でやっていますけども、授業中にとにかく気になったらその都度書いてというように、紙と鉛筆を渡しておく。かなり手の込んだテクニックでデータを集めていますけども、こういうことをやるだけである程度の自分のわからないことの外化、気付きへのレベルアップというのは見られますし、ちょっとやっていておもしろいのは、7回目8回目の授業で、7回目8回目で話されている内容について質問が出てくる、先週やったことに対して質問が出てくる。というのだったら私たちも教師として予想が付くのですけども、やっぱりという感じなんですけど、1回目2回目という、ずっと前にやった話をもう一回、教師としては応用話をしているときに学生の方は、そうだったのか、というように1回目2回目の話に対して疑問を持っているということが見えてきます。 これは確かに学生さん授業中に「先生1回目の授業ですけど」といって聞かないわけだろう。この辺はテクニカルなサポートが考えられたらおもしろいと思いますし、 (44) 一対一で起きるQ-Aを公開してしまったらWebも掲示板もあることだし、中山隆弘さんが学部の1年生の時にがんばって作ってくれて、今年2年生で、学会で発表させていただいていますけども、 (45) 教師がたくさん出てくるタイプの授業。教師のレクチャーノートですとか、先生の話をTAさん、大学院生のTAがまとめたノートというのを掲示板に一文一行くらいに切って、番号をつけて掲示しておきます。その番号をクリックすると、コメントを書くことが出来る。そのコメントを書くとコメントを書いた行の最後にマークになって出てきます。そのマークからコメントを見に行ってその中にレスポンスをつけていくと、マークの右側にレスポンスがいくつ付いているかが数字になって出てくる。 (46) こういうシステム、これだけやったんですけど、こういう物を作って1年生の授業に入れてみると講義主体の授業ですけども、その中でじわじわ人から与えられた物に対して、自分から働きかける文化が出来てくるように見えるデータパターンが出てきています。 作っている物ほとんど、私たち手作りでやっていましてそろそろ時代を変えなきゃいけないなと思っているんですが、手作りでやっているもんですから、裏で全部Logがとれるという、何でも分析できるという強みはなかなか捨てがたくて、やり方を変えられないでいま苦労しているところではあります。 ただ、考えていくと1年生の間にじわじわと質問もありかなと思った人たちが、2年生になったときにこういうヘルプがスキャフォールトがなにもない、という文化に行ってしまうのではつながりませんから、授業の間をうまく組み合わせて構成していく。一人一人の教師が自分の認知科学の知見で、自分の授業を良くしていくだけではなくて、一つのカリキュラムをチームで作っていって、チームで学んでいく学生に当たっていく必要があるだろうと思ってはいます。 (47) これらを集大成して授業を作る。というような話の中に認知科学を教えるというのが出てきまして、 (48) ある意味、学部のゼミ生さんから総動員でやってもらっていますけども、主な担当は益川弘如さんがやってくれています。 グループ間の協調活動を意識的にサポートするようなツールを入れて、認知科学的な考え方で認知科学的なコンテントを入れてグループの中での話し合いを支援することと、グループ同士が調べてきたことというのを、成果を利用しあうこと、グループ内というのは簡単に出てくる外化過程を拾い上げて、だけどそれもこんなことを考えたけどどうだろうという簡単な説明のレベルから外化して少しずつなおしていくということをやっておいて、少し固まってきたら、今までそういったことをしていない他のグループへ開いていく。お互いのグループの中で吟味しあっていってやっていける。こういう授業が回りそうなテクニックとして、目に付くもの何でも使っているのが現状ですけども、 (49) ReCoNoteというのは簡単にいってしまうとノート共有システムなんですけど、2つのノートを1画面に無理やり2つ同時に掲示しまして、その間に関係がありそうだったらリンクを張って、ただリンクを張るときにノートAとBならAからBはどういった関係があるのか。BからAはどういった関係があるのか。両方とも考えてというちょっとうるさいことをやっているんですけども、そういうことをサポートするためのシステムです。 (50) 左下と右上にメニューがあって、メニューを開くとノートが出てくるシステムになっていますけども、コメントを書くときは直接Web上から書き込んでいきます。 実際にはメニューを開いていって、自分の見たい資料を引っ張り出してくるんですが、ノートを開けるとだいたい右の窓にリンクの張られたコメントのリストが出てきます。この2つのノートの間にリンクを張るときには、上が上から下。下が下から上。両方の関係を両方考えて書いていく。それを書いておくとそれがリンクリストに付け加わって出てくる。というシステムの雛形で、これも少しずつ改造して、そろそろ大幅改造かな、と思っています。このシステムを使って授業をやって4年目になります。この部分の発表を最終日のワークショップで益川自身が話をさせていただいているのと、あと彼がポスターも持ってきていますので、細かいところに興味がある方は本人に聞いてください。 (51) 大まかに言いますと、最初は3年生の選択の授業で希望者は使ってください、ということでやっておいて、次の年には少し良さそうだったので、選択の授業で全員に使ってね、ということをやりまして、ここでかなりいい結果が出たものですから、「よし、行こう」というので、2年生の必修の授業を相手に全員でやりましらば、100人以上を相手にああいったシステムを使うということで、ちょっと大変でした。 今年はその経験を基に2年生必修全員の通年というのにチャレンジしていますが、このまん中の一番うまくいったところで、うまくいっている話だけしますと、 (52) この問題解決論というああいうツールが入ってくる。学習者自体が自分たちで調べて自分たちで説明をして自分たちが調べてきたことを少しずつ深めていきながら、自分たちが調べてきたことだけじゃなくて、それぞれのグループがやっていること全体を利用していこうという話ですから、ツールだけじゃなくて、カリキュラムのコースワークの方、どういった活動をいつやってもらうのかということの汲み上げというところに、私の言い方で言うと認知科学的な知見が必要ということになってきます。 この場合は問題解決論という話ですから最終的にヒトというのはどのような問題解決システムなのか、どんな特徴を持っているのかがいろいろ知られている知見をまとめテレポート書いてくれればいい。という授業で、そのために一番最初の1/3位の時期に3年生ですから、ハノイの塔って知っているよねとか、4枚カードっていうのがあったよね、というのをちらちら聞いてはいます。それであれかなというので結構賭けも含めてこのゲームについて、このパズルについて調べます。というのをコミットしてもらって、小グループで研究例を調べてまとめることをします。それで、まとめた結果をReCoNoteの中に書いていって少しずつリバイズを掛けていってクラスに発表してもらうわけですけど、ここでそれぞれのものが出てきます。出てきたものを発表を聞いてもらっているときに「あなたは4枚カードの担当だよね。だったら4枚カードの話とハノイの塔の話とポルソンの水瓶の人工知能のシステムを作る話が、どう関係しているのかを考えておいてほしい。その考えた結果をReCoNoteの上でリンクのコメントとして関係を作る」というようなことをやって、みんながやっていることをまとめ上げると何が起きるのかという活動そのものをやってほしい。この関係をつけて、それぞれが発表してそれに関係をつけてみて、リンクを張るというような時期がまん中1/3くらいあって、さいごの1/3からもう授業を終わってしまってレポートを書いてもらうところまで少し時間がありますから、この間でリンクを張って繋いだつなぎ方そのもの、あなた達のグループはどうやって繋いだのか。こちらのグループはどうやって繋いだのか。全体構造そのものをまたクラスに発表してもらうことをして、それ自体同士を外化、比較参照、吟味の対象にして、自分たち一人一人の知識を構造化していくことをして、最終的に内容を統合的にまとめてね。 最後に要求するのはヒトはどのような問題解決システムなのか。クラスがみんなで調べてきたこと+αでレポートを1本書いてよね。という話になります。 これを簡単に図式で説明しますと、それぞれが小グループでいろいろなタスクを調べていく。その間にリンクを張ってコメントをつける。コメント自身を一つのレポートにまとめ上げる。3段階の活動で押さえています。 こんなことをやって、ふつうの講義をやるのと内容的に、量的にどのくらい落ちますか。という類の質問をよく受けるのですが、いろんなグループが取り上げた数から言えば、丁寧に教師が話をしているときにふれられるトピックスは、相手がさすがに大勢いますから上回ります。1つの授業で4枚カードでしたら丁寧にやったら90分かかってしまう。だいたい12回〜15回ですから、講義だけでやっていくとだいたい15くらいしかできないですが、それではいかにも足りないですから、90分の授業の中にがんばると3つくらいの話を入れるわけで、3つ入れたとして15回で45トピック行けばバンザイだと思います。相当忙しい講義になると思います。まとめるチャンスは全くないわけですね。まとまっているのは教師の頭の中だけ、という話になりますけども、 (53) 今回の場合ですと、23くらいのグループが出来て、私の方で用意したものが11、学生が持ってきてくれたものが15で、くらい計26位のテーマについて報告ノートは48くらい出来ている。 (54) これを、どのくらい、いつ頃やっているのかですが、ノート作成時期はやっぱり最初に調べてきてねと言う時期が多いです。この時期はグループでやっている部分が多い。だんだんまとめの期間に来るとそれを利用して個人が考えていくという活動がおきていることがわかります。 (55) 実際にノートを付くって、本当に他人のノートなんか見に行くの?ということなんですが、これ数字が小さくて見えないでしょうか。全体の合計をいちばん右の欄で見ていただいて、自分のグループを見に行った回数は全員の全期間の総計で400弱。それに対して他のグループの他の人が書いたノートを見に行った回数は、6786回。ということになっていて、人が書いているノートというのは気になるようです。途中でかかれたらちょこちょこ見に行って、ああ、あそこまでやっているというので、新しいものを付け加える。というようなことが起きています。 (56) リンクをはらせてね、ということをやったのですが、リンクを張ると何かいいことがあるの?。ちょっとおもしろいグラフになっていますが、折れ線で書いてあるのがリンク数別のノート数で、左がゼロです。ゼロがさすがに多いです。5つ以上リンクが付いているのが15しかなくて、数的には少ないですが、15のノートが5つ以上リンクを持っている場合には82.6回という参照数を持っていて、その参照数が青のグラフですけども、リンクの数が多ければ参照数も多いというのはログからも見て取れます。 (57) どういうリンクをつけるのかといった細かい話は、益川さんのポスターを見ていただいて議論していただければありがたいのですが、おおざっぱに特徴だけお話しすると、リンクを張るときに、自分のノート中心に自分でリンクを張るということも出来ます。 それから自分のノート中心で他人のノートにリンクを張るできますけも、リソースとしてノートがありますから、他の人のノートどうしに勝手にリンクを張ることが出来ないと、Reisbergの話とKarmiloff-Smithの話をつなげて何かわかるよねと言うことは起きないので、本当はこういったことがたくさん起きるというのは、研究者の頭の中では起きていることだとは思うのですが、 (58) それがこの青です。学部の3年生でも起きるよ、というくらいで、ただ自分のグループ中心に外のグループに張りに行くのが紫色の部分で、関連付けてねって言っているから関連付けたと言えばそうですが、そういった活動が、カリキュラム、コースワークの設定のサポートで増えていく。 (59) そういった中で最終レポートの評価。このくらいでしか全体のシステムの評価が出来ませんけど、こういったタイプの研究ですと。23グループのうち10グループから、かなり質の高い詳細レポートが出てきています。タイトルは最初にお話ししたように、「人間はどのような問題解決システムか」という、タイトルとしては学部の3年生の半期の授業で教師がしらっと聞くにしては要求度の高いレポートだと思います。 ReCoNoteを入れてこういった形で授業をする前には、私自身こういったレポートを書いてもらう発想が出来なかった。あなたが調べた研究例を中心に何がわかっているかをまとめなさい、というくらいがせいぜいだった。だけどReCoNoteみたいなシステムがあって全体をまとめていくことは大切なんだから、素直に活動の中でやってみようよ。ということをコースワークの中で生かしていくことが出来れば、教師の方としても結構安心して全体みんなが調べてきたことをまとめると何がわかっているのか。認知研究といった中で問題解決研究はたくさんやられてきたと思うけど、それをまとめてどんな話になるか。というのを「あなたはどう思うか」という形で3年生に聞くことが出来る。 その中で10件の中で、やっぱり自課題中心で書いたものが3件ありました。それよりも全部をリストアップしてまとめたものはかなりメテキュアスなレポートになります。それをもう一つ自分の方から、「だからこういうことらしいよね」と統合してみる。さすがに学部の3年生のレベルの統合ですけども、そういうタイプのレポートが出てくる。関連付けてその関連性を吟味してという活動を、テクノロジーのサポートとカリキュラムの中でのサポートというものでやっていて、もう一つちゃんとお話ししていないのは、クラスの中にはシステムを回している益川さん自身から他の院生の人たち、去年この授業をとったはずの人たちが少ないときで2,3人、多いときで5名以上が実際に入って学生達の活動をサポートしている。授業外での活動をサポートしている面もあります。だから、私のカリキュラムとツールだけでこういったことが起こっているとは思いませんけれども、こういった工夫をすることで学生というのはがんばっていろいろなことをやってくれるという事実はあります。 これをそのままスケールアップして去年2年生にそのままやってみましたら、はちゃめちゃで、その授業を受けさせられた2年生というのも今日来ていてくれていますが、そういったところから、ある意味ヒトは一緒に自分の考え方をそれぞれ調べたものを比べていくというのはどういうことだろうね。ということを見直して、 (60) 今年は認知科学の概論、最初に1年生の概論は別でやりますけども、2年生の中でそもそも認知科学って学際的な学問なんだから、人工知能的なモデルをたてるアプローチとか、トップダウンに理論を押すアプローチとか、とにかく実験をとっていって実験でこういったことがわかっているからこうなんだとボトムアップで攻めていくアプローチもありますし、最近ですと大脳生理学的なアプローチもありますし、たぶん認知科学的な認知科学のプラズマティズムを体現したようなインターフェース研究ですとか、ラーニングサイエンスであるとか、こういう仕掛けを作ったらヒトはここまで動くはずという、応用研究という名前はあまり好きではないのですが、そういった適応的な現場志向研究という5つのアプローチがある。そのアプローチそれぞれで、自分はどのアプローチが好きそうかというカンをつけてもらって、知能ですとか学習ですとか、そういったテーマについていろんな研究があるよね、と言うことをグループで調べて、5つのアプローチを持ってきて、学習についてシュミレーション研究はこうでね。というのを5人くらいのグループで話し合ってもらってそれをまとめて、そのまとめたことを他のグループと比較してというような授業をやって、こういうものの前に、掲示板型のヒトにものを聞いて答えを得ること自体が共有財産なんだという文化の上に、こういった授業を入れていって、後期はここから「認知科学がどういったテーマで何を考えていったらおもしろいんだよね」ということを2年生が2年生の頭で考える、2年生に考えられないことはないと思います。 白水さんと私でずいぶん長くやってしまった、折り紙の2/3の3/4に斜線を引いてというのは、もともとカッテージチーズの2/3カップの3/4取るとということを文化人類学者が観察したという有名な例があることはあるんですけども、「これ折り紙で出来るんじゃないですか」と言い出したのは2年生だったんですね。それがきっかけでいろいろな研究が開かれていく。そういう意味では、ある意味学問自体にナイーブであっても、人間自体を見る、ある種の視点を持っていて「こういうことがわかっておもしろいんじゃないの?」というセンスを持っていた人が、乱入してくることが出来る余地がある学問分野でもある。そういった人たちが考えていることを周りに、きちんとプロがいて「それはこうやっていったら何かなるんじゃないの?」というように、一緒に活動していくエネルギーと暇があればそこから新しいものが出てくる分野でもあると思いますので、そういった形で、認知科学を認知科学科の中で教えていける文化をちゃんと作っていきたいと思います。 こういう風にして考えていくことで、人間が人間のことを考えること自体が、認知科学科にたまたま来てくれた学生だけではなくて、人間についての興味を持っている一人一人の人間が持っていて、「自分たちのやっているのはどういうことだろう?」というのを考えていける。そういう人間理解というのを、それが人間の文化的な共有財産になるための認知科学と考えると、認知科学というのは一種教養教育的な一面も持っているのかもしれないとすら最近考えています。 (61) やっていたことを最後にまとめていきます。 気づいてみますといろいろなことをやってきて、認知科学を教えるのに読んで理解するとか、書くとか、計算するとか、説明するとか、やっていることを振り返るとか、自分を評価するとか、考えを作り直すとか、人から学ぶとかいろんなことをやってきているんですけども、やってみるとわかるんですけど、読むということ一つとってもものすごく難しいことらしいですね。本を渡して、「読んできて」「何が書いてあった?」というと、最初に書いてあったことと、まん中に書いてあったことと、最後に書いてあったことを抜いてきて、「最初がこうで、まん中がこうで、最後がこうでした」と言われると、こっちは読んで中身を知っていますから、相手も自分と同じくらいわかっていると思ってしまいますけども、カードを並べてなんていうプロセスを逐一見ていくと、それをやってもらったからって構造化されているレベルは私と初めて読んだあなたとではこんなに違うのねというのが、ますますあからさまになる。 (62) 今までいろいろやってきた中で、どうも簡単に出来るのは折り紙の上で2/3の3/4を計算するというのが、これはすごく速いんですね。これは出来るみたいなんですけども、他のことは、たいていのことはものすごく難しいです。逆手で考えてみると、まともに扱っていないのはこうやって話を聞いていて、人はどのくらい話が分かるものなんだろうか。あまりわからないと思ってみるのが正しいのではないだろうか。 この辺も少し調べて、これこそ大学の授業なんかを考えていくときに、この辺のところもわかっていきたいなと思います。発話する方の効果は調べてきましたけども、音として受け取ったものを人はどのように受け入れられるんだろうか。シーケンシャルで、セメラルです。相当大変な処理だろうと思います。 (63) 一生懸命やってくれている仲間の学生達をみていても生活が結構大変で、今回話を持ってくるのに昨日の夜中まで練習していましたし、こと資料が英語になるとやっぱり大変で、英語の学会で発表するのちょっとなぁ、という人がたくさんいる。こういう人たちをどうやってサポートしていくのだろうかという話も、認知科学が教養教育ならたぶん私たちの仕事の一部なんだろうと思います。 (64) まとめてしまうと、やっていることは何なのか。 constructive interactionから内的リソース、外的リソースの細かい相互作用のあり方というのを片一方で詰めていきながら、それを使って認知科学というものをものにして、私たちが使える道具として、人がわかる授業が出来る。社会のシステムがネットワークが入ってきて変わっていくときに、どう対処したらいいかがわかる。ということをやっていくためには、私たちが立ち戻れるところは自分たちが知っている当たり前のことでしかないのかもしれません。それを一つ一つ丁寧に実現していくことが、総体として賢さの実態につながるのかなぁ、というような気がしています。 (65) 一種のFolk Cognitive Scienceというようなものを推進していく必要があるのかもしれなくて、人が人について知っていると思っていることをみんなが見直せる。当たり前にやっていることの基本として、中と外とのインタラクションという分析の対象として非常にやっかいなものがありますので、その相互作用の中身をどうやって見破っていけばいいのかという方法論を確立して、わかってくるところから活用していって、賢さが本当にそれで実現できるのかということを考えていく。 この辺が出来てくると一般常識としての認知科学が、出来るようになるのかもしれない。 (66) 相互作用で、ずっとみてきて思うことは、賢さの実現、相互作用を使って共に何か新しいことができあがってしまう共創性がむしろ人間の認知活動の本質なのかもしれない。というように思うようにますますなってきています。 ただ、その本質というのは私たちがなぜか身につけてきたもので、偏った使われ方をするようです。ここでは共創できるけどこっちではだめというように、たいていなっていますから、その本質を解明して、私たち自身がより賢くなれる社会を創っていきたいというようなことをこういった機会をいただいて、なんか無理やりまとめたというような感じなんですけども、ちょうど時間いっぱいかかってしまいました。 どうもありがとうございました。