国境を超えて:JICA草の根技術協力事業「埼玉版アクティブ・ラーニング型授業による授業改善のための教員研修支援プロジェクト」に寄せて

CoREFは埼玉県がJICAと展開している「埼玉版アクティブ・ラーニング型授業による授業改善のための教員研修支援プロジェクト」のお手伝いをしながら、フィリピンの先生方と協調学習の授業づくりについて、どんな学び合いができるかに挑戦している。今日は、その一端を紹介したい。

(1)CLILと協調学習

フィリピンの児童生徒の英語で話しながら考える力やプレゼンテーション能力は、目を見張るものがあった。セブ国立科学高校(日本の中学校相当)で「どうやって英語を勉強してきたら、そんなに話せるようになる?」と聞くと、ある女子生徒は「私たちは理数とかは小学校3年生から全部英語でやるから」と答えてくれた。続けて、「昨日小学校ではマイナスを扱っていたのだけど、あなた方の母語(ビサヤ語)にはあるの?」と聞いてみると、「一語でマイナスを正確に表す語はないので、だから英語を学ぶ必要があるんだ。それで私たちは家に帰って親など普通の人(lay people)に話すときにはなるべくわかりやすく、明快に語らないと伝わらないんだ」という答えだった。その受け答えには、家族や街を代表して学ぶ志まで感じられて印象的であった。外国語教育の面で言えば、高等教育で扱う概念まで全て日本語に訳されている日本と違い、中等教育以上の内容は直接英語で学ぶしかないという制限が“All English”に必然性をもたらしていると言える。
教科内容を英語で学び、その中で英語の使い方自体も学ぶ学び方を最近CLIL(Content and Language Integrated Learning:クリル)と称するが、科学的・専門的概念が母語に訳されていないという状況が、必然的にCLILを要請するとも言えるだろう。知識構成型ジグソー法におけるクロストークが小学校では若干物足りなかったのだが、それもフィリピンの教育者からすれば、小中高の教育課程の中で、どこまで「英語で概念を扱えるか」という長い目で見た教育の一段階だったからかもしれない。

それでは日本の英語教育に未来はないのだろうか。
学ぶというのは、専門的な概念を自分たちの経験で納得できる言葉に言い換え、使う言葉(用語)のレベルを上げていきながら、言葉同士を結び付けて語ることができるようになることだとも言える。フィリピンの子どもたちは、この言い換えを英語の世界の中で小中高かけてやっている(やらざるを得ない)わけである。それが英語と概念の学習を共に進める。一方で、日本の子どもたちには、日本語にほとんどの専門概念が訳されているという蓄積の中で、教科学習の中で母語での概念の言い換えを積み重ねている強みがある。
もし日本の子どもたちが、英語が単にプレゼンのためだけのスキルではなく、母語と同じように、言葉を言い換えながら対象を理解したり言いたいことを何とか表現したりする手段だと、ひとたび理解することができれば、日本の子どもたちには、日英両方の言語の中で言い換えを楽しめる強みがある。
こうした方向性を見据えて外国語教育をいま一度考えてみることが必要ではないか。

(2)型の共有から見える学びの普遍性

夏の訪問の最後の授業、マンダウエ総合高校の数学の授業は、国境を超えて、知識構成型ジグソー法という型を共有したことの強みを実感した内容だった。
課題は単利・複利計算の導入で「10,000ペソを5年間預けるときに、複利の銀行と単利の組合のどちらに預けた方がよいか?」という単純なものであり、そのために資料AとBがそれぞれ「単利」と「複利」で預けた場合の元金と利息の変化の計算、C「単利と複利の利息の額を表したグラフ(ただし一目で複利が有利と見えないように横軸縦軸の尺度を変えてある)」を統合するものだった。面白かったのは、この授業が日本で進学校と進路多様校に当たるような「理数先進クラス」と「実業クラス」で同じ教材で行われたことだ。二つのクラスを担当した二人の若い教員は、公開授業の前に3回も別クラスで実践を重ね、資料を微調整したという。

先に行われた先進クラスでは、生徒はエキスパート資料を受け取った途端、話しながら考え、ジグソー活動に至っては、単利の説明をした女子生徒が、複利の説明をし始めた女子生徒のワークシートを見て「ねえ見て、(単利と違って)1年ごと利息を計算し直している!もしかしてこういうことじゃないの?」と代わりに説明しながら全員で答えをまとめ上げていった。最後のクロストークでは、指名された全グループで一人ずつ代表が立ち上がり、流暢な英語で正解とそれぞれ少しずつ違う理由づけを発表した。

これに対して、実業クラスでは、プレ記述の段階で「安全そうだから銀行に預ける」と書く生徒もおり、エキスパート活動ではまず説明より関数電卓で黙々と問題を解き、ジグソー活動でも資料の説明が終わると初めて統合の活動に移るという展開だった。クロストークでは、各グループとも三人全員で前に出て来て、その頼りない説明を教室中でグループを超えて支え合うこととなった。最後のグループは英語での説明の最中に“Because compound interest is not simple interest.”という説明にならない発言をし始め、その後ビサヤ語に戻って説明を始めた。教師は最初“Speak in English!”と制したが、それでもビサヤ語に戻る生徒の姿に意を決したように私たちに向けて英訳を始めてくれた。このクラスでは、それでも単利・複利の理解に至っていない模様だったが、クロストーク後に「金を借りるならどっち?」という先生の問い返しに、複利での借金の増え方に思い至り、そこで腑に落ちる形での理解を得た様子だった。

ここには、ペースや契機は多様であっても、学びが具体から抽象へと進むことや、そのために何度も対話を通して言い換えながら資料の内容を結び付けていくことが必要であることなど、日本のどこの学校でも見られる協調学習における理解深化が見られる。
その意味でたとえ国籍も民族も今までの学びの経験が違っていても、子どもたちの学ぶ力というのは普遍的に存在しているのだろう。しかも、そうやって話しながら考え、言葉を言い換えて積み重ねながら考えを変えていくときに、どれだけ母語が頼りになるかも見えてくる。
前節に戻れば、この学びの総体を見据えて、私たちは外国語教育というものを考え直していく必要があるのではないだろうか。